こんにちは。モトです。
夏目漱石が面白い。そんなの前から知っていると言う人がほとんどだと思いますが、僕が漱石の本を読み始めたのはつい2年前です。
中高の学校の授業でも読んだ事がない。たぶん、ないはずです。少なくとも僕の記憶にはない。
僕が漱石を読み始めたきっかけは、3年前にパリに行ったとき出会ったおじさんに勧められたことです。そのおじさんは、定年退職した塾講師で、当時は投資家でした。
おじさんからは投資の話だったり、塾講師の仕事の話だったり、旅先でギターを引いて小銭を稼いでいる話を聞きました。
どのような話から「三四郎」を勧められたのかは思い出せないのですが、ぜひ「三四郎」を読めと言われたことはよく覚えています。
1. 三四郎 夏目漱石
「迷子」
女は三四郎を見たままでこの一言を繰り返した。三四郎は答えなかった。「迷子の英訳を知っていらしって」
三四郎は知るとも、知らぬとも言えぬほどに、この間の予期をしていなかった。
「教えてあげましょうか」
「ええ」
「ストレイ・シープ−−−−−−−わかって?」
三四郎
ぜひ読んでほしい作品です。僕は、3回は読み返しました。いまはプーケットでこの記事を書いているのですが、ここでも「三四郎」を読みました。面白い。
この作品を通して戦前の日本人の価値観が感じられます。熊本から上京してきた三四郎が東京の大学で恋に落ちる物語です。
余韻のある物語
美穪子と三四郎の言葉の少ない会話がとてもいい。
個人的な意見なのですが、僕は三四郎を読んで、ヘミングウェイの「日はまた昇る」に似ている何かを感じました。
どちらの小説も、大きな展開はなく進んでいきますが、読み終えた後の読了感がある。なにか惹きつけられるものを感じます。余韻に浸れるから、だからもう一度読みたくなる。
僕の想像なのですけど、この余韻を残す感覚が、俳句に似ていると思う。漱石は俳句が好きですからね。少ない言葉で語り、そこに意味を漂わせる。
このようにあえて語らない、あえて書かない美学は日本画にもあります。
思い出して欲しいのですが、よく旅館などに飾られている水墨画は、紙いっぱいに絵が描かれていませんよね?おもに山や竹が下の方に描かれて、上の方は何も書かれていない。余白です。
日本の画も余白を大事にしています。あえて、書かない部分をつくる。
話が逸れましたが、三四郎は面白いのでぜひ読んでみて下さい。読み始めてからの半分はわりと退屈ですけど、後半からどんどん惹きつけられていきます。
2. 硝子戸の中 夏目漱石
その時彼は私の見ている前で、始めて医者の勧める少量の牛乳を呑んだ。それまで首を傾げていた医者も、この分ならあるいは癒えるかも知れないと云った。ヘクトーははなして癒った。そうして宅へ帰って来て、元気に飛び廻った。
硝子戸の中
漱石のエッセイです。これが素晴らしくて面白い。漱石の生活や価値観がちりばめられた作品です。「吾輩は猫である」のように様々な人が漱石を訪れて、そのときの様子が描かれています。
僕がとくに好きなのが、犬のヘクトーの話。なんだかんだ言っても漱石がヘクトーを可愛がっていたのが分かります。
男女の波瀾を描いた完璧な文章
犬のヘクトーの話も好きですが、24項に書かれている男女の恋の波瀾の話もぜひ読んで頂きたい。
「するとあなたが間接にその女を殺した事になるかも知れませんね」
「あるいはそうかも知れません」
「あなたは寝覚めが悪かありませんか」
「どうも好くないのです」
硝子戸の中
うまく言えないのですが、この項を読んだとき、なにか言葉にできないものを感じました。たった2ページちょっとの話ですが、人を惹きつける美しさがある。僕のなかでは完璧な文章です。一文字だって無駄がない。
3. 私の個人主義 夏目漱石
漱石の過去と生き方がわかる学習院大学での講演録です。漱石の個人主義という考え方に思い至るまでの過去の話も考えさせられるものがあります。だけど、僕の胸にぐさっと刺さったのは、聴衆の学生にむけられたアドバイスです。
もしあなたがたのうちですでに自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行くも悪いとはけっして申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり付随しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。
いけないというのは、もし掘りあてる事ができなかったら、その人は生涯不愉快で、終始中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。
私の個人主義(改行は僕が編集しています)
このアドバイスは、漱石自身の経験に基づいて話が進められます。
文学とは一体なにであるのか、悩んでいた漱石が悟ったことは、他人本位ではいけないということ。自ら文学をこしらえないかぎり、自身を救う手だてがないことを悟ったと漱石は言います。
ロンドン留学で、客観的に自分を見つめ直す
このことに気がついたのは、ロンドンで留学をしたときだそうです。つまり旅を通じて、客観的に自身を見つめ直したことで、初めて分かったことではないでしょうか。
その後、漱石は文芸以外の本を読み始めます。科学的な研究や哲学的な思索に耽り始めるのです。それは自分の考えを、自己本位という考えを立証するためです。
話は戻りますが、鶴嘴で鉱脈を掘り当てるという比喩は、村上春樹さんが小説家として、自信がついた時期についての話でも出てきます。どのインタビューで答えたのかは、忘れてしまいましたが、「羊をめぐる冒険」を書き終えたあとに感じたそうです。
あとがき
本当は「吾輩は猫である」についてなどもっと書きたいことがあるのですが、いつまでたっても投稿できないので、先立ってブログを更新しました。
「私の個人主義」が僕にとって、タイムリーな内容であっただけに、背中を押してもらえた気がします。漱石は小説もエッセイもなんでも面白いです。ぜひ読んでみて下さい。
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